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最近の右の人々(51)

50 名前: 667j 1999/06/24(木) 06:13
>名無しさんへ
>しかし 副検事の近親者の方は 仕事熱心な方ですね。
別に仕事熱心な訳ではないのです。
あまりにも交通事故の案件が多すぎて,そうせざる得ないのです。
ちなみに,検察庁で交通事故を担当するのは,主に出世の見込みの
ない学閥からはずれた人たちなんです。

さて,このスレッド本来の話です。
多少重複しますが失礼します。

戦後まもない頃,我が国の自治警察権は事実上GHQに掌握されていた
為に,所謂,第三国人に対する警察権や治安は任侠団体や愚連隊に
暗黙の了解の上で委任され,また,彼らもそう自認していました。
右翼勢力は指導者の投獄・強制的な解散により,壊滅状態です。

昭和34年から35年にかけて,安保改訂国民会議(日共・社会党
・総評)に対峙するため,また当時警視庁がどんなに頑張っても
1万5千人程度しか警備動員できなかった事情により,自民党の要請
で児玉誉士夫の肝煎りにより博徒系1万8千人・テキヤ系1万人
・旧軍人,消防関係,宗教団体1万人・右翼4千人などの動員計画が
練られました。上述されている反共抜刀隊ですね。
結局最大の山場と言われた,アイゼンハワー訪日は中止に
なったのですが,結果的に自民党党人派と任侠団体の結びつきが
強固になったわけです。

その後,児玉誉士夫は池田内閣の時に,反共を目的として,
野放しで膨張している全国の任侠団体を糾合し,政界に対して
ますます隠然たる威圧を与えようと東亜同友会の設立を企てました
が,関西での山口組と本田会の対立でまとまりませんでした。
結局は,昭和38年に「共産主義に対し,これを撲滅すべき全面的に
闘争を挑み,また国民の愛国精神を発揚する。」と綱領にうたう
関東会が,鶴政会・松葉会・北星会・国粋会・港会・義人党
・東声会の7団体によって発足しました。
関東のまとまりが良かったのは,児玉と親分衆のつながりが
深かった事,自民党院外団の同志会に加盟している幹部が多数いた
事,縄張りが整然として保守性が残っていた事などと言われていま
すが,児玉 誉士夫への義理立てと山口組へ連合して対抗する意図が
あったとも言われています。

もっとも元来,任侠団体は日本古来の祭祀を重んじる団体ですので,
彼らが考える愛国の義からの行動であることは否定できませんね。
事実,現在とは違った意図で政治団体の届け出をしていた様ですし,
初代理事長の松葉会・藤田卯一郎は,「将来は,総評に対抗する
政治活動団体にしたい。」と述べています。
そして,憂国の念からか,結成直後に自民党の全国会議員に強硬な
警告文を出しています。
要約すると,自民党は派閥政治を止めろ。ということなのですが,
党人派の河野一郎に好意的で,反河野で官僚派の佐藤栄作を攻撃
する意図に取られても仕方がない論調で書かれていました。。
常々,党人派に連なる,児玉=任侠団体を不快に思っていた官僚派
の議員達は,分を弁えないにも程があると,激怒したようです。
しかも,住吉会の碩上義光,国粋会の森田政治などの親分衆には
事後承諾だったようで,関東会自身が破綻し始めるのです。

党人派の大物,大野伴睦と河野一郎が亡くなると,待ちかまえて
いた様に官僚派主導による警察庁の暴力取締対策要綱が,
昭和39年制定されます。
いわゆる,頂上作戦の始まりです。

戦後の流れを見る限り,重要な局面で左翼勢力に対して,
卓抜した右翼思想家と指導者がいなかったこと。
その為か,任侠団体に頼り過ぎ,彼ら自身尖兵的な行動右翼と
自負して,社会の表舞台に進出し過ぎた事。
その任侠団体は政争に弄ばれて,最終的にはすべて悪と
決めつけられてしまった事。
現在,右翼=怖い人と思われている,最大の理由がこの辺にあると
思うのですが。いかがでしょう。
もちろん,日教組が行ってきた,戦前のモノはすべて悪という
教育にも原因はあるのでしょうが。
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